明治38年(紀元2565年、西暦1905年)、対馬海峡で日本の命運をかけた日露の大海戦が行われた。
そもそも日露戦争は、超大国帝政ロシアの極東侵略に対して、当時いまだ無名の一小国に過ぎなかった日本が、国家の総力をあげ、死力を尽くして戦いぬき、ついに島国日本を不敗の態勢に作りあげて、ロシアの継戦意図を放棄させた戦いであった。
明治37年10月15日、ロシアのロジェストウェンスキー中将率いる増遣艦隊は日本攻撃のため母港を発進した。明治38年5月27日午前2時30分、五島列島西方水域にて警戒中の仮装巡洋艦信濃丸が、バルチック艦隊を発見した。これを迎え撃つ東郷平八郎司令長官以下、日本海軍連合艦隊は『敵艦ミユトノ警報ニ接シ連合艦隊ハ直ニ出動コレヲ撃滅セントス、本日天気晴朗ナレドモ波高シ』の電報を発し、午前6時、沖ノ島北方海域に進出を終え、北上するバルチック艦隊の出現を待っていた。午後1時39分、日本連合艦隊主力は、南西約13キロメートルにバルチック艦隊を望見した。東郷司令官は、敵の左側列先頭から撃破しようと、艦隊を西進させつつ、午後1時59分旗艦『三笠』のマスト高く「皇国の興廃此の一戦に在り、各員一層の奮励努力せよ」の信号『Z旗』が掲げられた。
この信号は、およそ二百年前に英国の存亡をかけたトラファルガー海戦で、名提督ネルソンが、旗艦『ビクトリー号』に掲げた信号「英国は各員がその職務を尽くすことを期待する」とともに、世界的に有名になった信号である。
このZ旗を掲げ、全員決意を新たにし、進撃すること10分、敵との距離8キロメートルにおいて、突如左大回頭が発令された。いわゆる『東郷ターン』が敢行され、日本海海戦の火ぶたは切って落とされた。激戦1時間すでに戦勢はきまり、ロシア側の被害は、順次後続の諸艦に拡大し、各艦とも火災に悩まされていった。
5月27日、5時間に及ぶ海戦で、ロシア側の頼みとした、新鋭戦艦5隻のうち4隻が沈没し、残った戦艦『アリヨール』も大破し、その他諸艦も大損害を蒙る惨状となった。
ほとんど無傷に近い日本艦隊に対して、38隻のロシアバルチック艦隊は、26隻が捕獲又は撃沈された。これにより日本海海戦は、日本側の完全大勝利をもってその幕を閉じた。
この日本の勝利が海外にあたえた影響は大きかった。小国日本が大国ロシアの南下をくいとめ、独立を確保したことは、中国の孫文やインドのネルーをはじめとして、アジアの諸国民に自信をあたえ、トルコ・エジプト・ポーランド・フィンランドなどに独立運動が巻きおこるきっかけとなった・今日、国際連合には多くの独立国の国旗がひるがえっている。(以上、当日の配布パンフから抜粋)