人は年齢と共に多くの経験を通して知恵がつくと言われます。その通りでしょうが、煩悩から抜けきらぬ一般の人は、いい経験もたくさんするのですが、一方悪い経験も澱の如く溜まるのもまた事実です。そして頑固、頑迷になる事、これも困った事です。新規の物に挑戦していく気概の大切さを頭では痛感しても、心で受け入れないという矛盾を最近感じるようです。
科学の発達により、また先人の努力の積み重ねにより、製品は高品質に、生活は向上し、未知の世界が解明されと日本の文化は絢爛豪華という修飾語がぴったりする世相になりました。正に繁栄を満喫できる時代です。
しかしそこに芥川龍之介ではありませんが「漠然とした不安を感じる」のを何かしら拭えないのも事実です。それは何でしょうか。勿論「漠然とした不安」ですから、明確には分かるはずもありませんが、何となく家で言うと基礎石、土台の部分にあるような気がします。潜在意識が教えてくれるような、本能的なもののような気がするのです。その思いは、私はブラジルから帰国以来途絶えずに持っていたのですが、それに答えを見つけたよう説を渡部昇一先生の著書に見出しました。
“羊に率いられた獅子の群れよりも、獅子に率いられた羊の群れの方が強い。”
これは渡部先生が紹介されている、ラテン語の諺です。そこで先生は先の大戦を引き合いに出されているのですが、チャーチル、ルーズベルト、ヒットラー、蒋介石と、なるほど綺羅星の如く個性強烈なリーダーがいました。日本だけが政治的軍事的に仰ぎ見るリーダーがいませんでした。世界の中でも群を抜くような頭脳明晰な秀才エリートは多く存在していたのですが。また、日本の下士官や兵の能力は獅子であり、アメリカ軍を驚嘆させたと言います。個々の人間の能力に於いては決して、外国人に引けを取らなかったにもかかわらず日本は負けたのです。羊に率いられた日本が、獅子に率いられた連合国に負けたのです。正に、ラテン語の諺通りを地で行きました。
そのラテン語の諺は、戦後の現代にも言えることではないでしょうか。でも、平和時ならば、私はそれがさほど杞憂すべき問題だとは思いません。日本人は「和」を尊ぶ農耕民族であり、その昔から「和」を生き方の基本原理としてきた社会で、リーダーが無能だと集団そのものが滅びる恐れのある騎馬民族とは思考様式も行動様式も違うのは当然で、その違い自体は優劣を論じるものではないのです。属する民族の社会の基本が違うのです。「理に掉させば角が立つ」のように、理屈は通っても全体としては「和」が崩れては住みにくいのが日本の社会でしたし、今もそうでしょう。
しかし、歴史の流れで「和」が崩れる時代が時々あり、特に時代が状況的に沸騰している、平時の方法では国が亡ぶという時には、過去の日本にもリーダーが出ています。それは、元寇の時の北条時宗であり、戦国時代の武将たちに見る事ができます。その歴史は、危機になれば自然とリーダーが出るといった他力本願、神仏へのおすがりといった信仰ではなく、日本人は平時と非常時ではリーダーの選び方を変えていたという事です。つまり、危機や危急存亡のときには平和の行動原理や農耕民族の「和」の気分でリーダーを選んではならないという事を、意識していなくても直感的に感覚として持っていたという事です、そしてそのリーダーに見る特徴は、「死に向う覚悟」を皆持っているという事です。そこから「生き残る筋」を求めている事です。
そうした時代を教えられると、漠然として不安に思うのが、現代の日本人は、昔の日本人には備わっていた感覚や、覚悟あるいは肚の座りといったものを喪失しているのではないかという事です。石原慎太郎さんが「平和の毒」と言われるのがこれなのかもしれません。或いは平和とはそういう様相を醸し出すものであって、それを喜ぶべきことが正しいのでしょうか。