日本のアキレス腱


 メディアが発達した現代では、様々な出来事が瞬時に伝わります。それは情報や様相や人の表情が早く伝わるという長所の反面、好ましからざることもあります。私は以前から、日本の政治家やインテリの発言は歯切れが悪いという印象が拭えませんでした。「私はこう思うのですが、しかしこんな見方もできる。
 また視点を変えるとこうも言えるし、また必ずしもそうではないという可能性も否定できない。」というような曖昧模糊とした発言が多く、明快な決断を述べる人がほとんどいないという気がしていました。それは言質を取られ不利な立場になりたくないという保身本能から来るものだろうとは思うのですが、何を考えているのかはっきりしないという欠点があります。その思いを引きずっていたある日、渡部昇一先生の著書に感銘を受けるものがありました。それは現代日本の病をはっきり指摘されたものでした。その渡部先生の著書を参考に私見を述べたいと思います。
 「行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張、我に与らずと存候」(勝海舟)
 「ますらおの 悲しきいのち 積み重ね
   積み重ね護る 大和島根を」(歌人の三井甲之)

 前の句は、福沢諭吉が「痩我慢の説」で、その処世を非難したものに対する海舟の返答であり、当事者として局に当った海舟の不動の自信を感じさせます。
の和歌は先の大戦で倒れた先人の霊に対し、歌人三井甲之が詠んだ慰霊の和歌です。そしてこの二つが、現代の日本のアキレス腱を端的に示しています。
 文化は爛熟し、70 年余の平和が続く中、庶民の言動立ち振る舞いは落ち着きもなく、平和と繁栄を当然とし、その時々に流される刹那的人生と享楽であり、その生き様は根無し草の軽薄さに例えられるでしょう。そうした世相を反映してか、戦後教育で育った世代が政治や政権の中枢を占める現在、大臣や政治家の行動や言葉に実が感じられないのは何故でしょうか。それは日本人が自らのアキレス腱を気付かず、気付かないから克服できないでいるからと言えないでしょうか。
 では日本のアキレス腱とは何でしょうか。それはとりもなおさず、歴史問題です。どの国も歴史問題を抱えています。しかし歴史問題が外交問題にまで発展するなどあり得ない事です。だから日本と中国、韓国に横たわるこの問題は他の国々から見ると驚きであり、悪しき前例になると苦々しく思う事でしょう。
その歴史問題の中でも特に重大さを秘めているのが、靖国神社参拝問題だと私は思います。
 歴史問題の起こりは、根本には敗戦と東京裁判があり、さらには日本のマスコミと反日的日本人の売国的邪心と悪意が抜き足ならぬものに深刻化させ、そして決め手は三木総理でしたか、それとも中曽根総理でしたかの誤判断による私的参拝発言が複層的に関わり合って今日に至っています。
 先の大戦でアメリカが行った原爆投下は無差別大量殺人の国際法違反であり、その根底には民族絶滅思想があったことは間違いなく、その延長に戦後の占領政策があったと言えます。その手始めが「この裁判はどういう権限で行われる裁判なのか」という清瀬弁護士の裁判の根拠をただす質問に、答えようがないまま進められた東京裁判でした。だから裁判としては無効なはずの東京裁判を「裁判として受け入れた」という事を公認して、戦後日本の出発点とする政治家が少なくありません。彼らは、そのために巧妙なレトリックスを用いることに躊躇しません。
 恐らくアメリカは知性の部分で、贖罪意識を持っていることでしょう。その反面、自らが行った過去の行為の正当性を主張するためにも、慰安婦や南京大虐殺、敷衍しての靖国神社参拝などの歴史問題はアメリカにとっては大いに利用価値がある訳です。アメリカは政治や軍事的には日米同盟の強固な機能が不可欠としながらも、一方では日本に対する姿勢に心理的優位さを保持するという意味では中国と共通の利益を有していると言えます。この現実をしっかりと認識して、日米関係を考える必要があります。
 ここ数十年来、8月15日の終戦の日に日本国総理大臣が堂々と靖国に参拝する事が殆どありません。8月15日に行くと断言しながら、直前で参拝する日を変更したり、代理人を送ったりと腰が引けています。総理大臣には総理大臣としての判断と言い訳があるのでしょうが、外国から見ると、国民から高い支持率があるにもかかわらず靖国神社に参拝しないという事は、日本という国は中国や韓国には逆らう事ができない国なのだという事になります。そして日本は外からの圧力にいとも簡単に屈するという印象を持たせるのです。これは果たして将来、子孫や日本にとって利点や美点になるのでしょうか。
 戦後世代にはぴんと来なくとも、戦場で戦い多くの戦友を亡くした私の父達のような戦前の世代にとっては、8月15日は、感情においても記憶においても「特別な日」です。先の大戦において戦場に散った先人たちは、誰も死にたくて死んだわけではないのは言うまでもないでしょう。その生まれた時代のその時には兵隊になる年だった、或いは男に生まれたという事で戦場に赴き、愛する親兄弟、故郷、母国を守るために戦い、戦場に散ったのです。自分の命を投げ捨て、象徴的には天皇陛下に身を捧げ日本を守ろうとしたのです。しかし、それを果たせずして日本は敗れたのです。勝った戦争ならまだ救いがあると強弁できるでしょうが、敗れた戦いの死であったからこそ、今生きている我々は、無条件で哀悼の意と慰霊行わなくてはいけないのであり、その日本国民を代表して時の総理大臣は靖国神社に8月15日には参拝しするのが、日本国の首相としての務めだと思います。
 東京裁判の欺瞞と不当性を知るなら「日本は近隣諸国に迷惑をかけた。」という日本が侵略戦争を起こしたと主張にくみする義理は何処にもありません。また、国の為に亡くなった人の慰霊に、相手国の事を考慮する必要はありません。相手国の事情に考慮するなら、慰霊などできません。「迷惑をかけた」を認めることは、「貴方たちの父や祖父は悪い事をした」と子や孫に言っているのと同じで、また戦場に斃れた先人の命は近隣諸国の犠牲者の命より軽いものだと肯定する事です。それでは戦没者の鎮魂や慰霊にはなりません。
 こうした発言をするや総理大臣や政治家は、靖国神社の意味が分かっていないというべきであり、総理大臣や政治家の資格がないと言えます。
 このまま将来にわたってこの日本のアキレス腱を克服できない限り、日本の存在感は薄れゆくことでしょう。 それは翻弄され、侮られることを受け入れるという選択を自ら行うという事であり、それは日本の安寧を願って死んでいった先人の霊に対する「侮霊」つまり「無礼」と言えます。
 この日本のアキレス腱を克服すべく強固な信念を、我々国民は持たねばならないと思うのです。極論すれば、歴史問題は日本の安全保障に関わるものではないという性質がある限り、日本は日本の主張を譲らず孤高を守っても何ら構わないと思うのです。下手に相手に譲歩する、その善意が相手に逆用、悪用されるといった愚の骨頂は繰り返してはいけません。

平成27年11月9日
守山善継
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ラテンの諺に見る真理


人は年齢と共に多くの経験を通して知恵がつくと言われます。その通りでしょうが、煩悩から抜けきらぬ一般の人は、いい経験もたくさんするのですが、一方悪い経験も澱の如く溜まるのもまた事実です。そして頑固、頑迷になる事、これも困った事です。新規の物に挑戦していく気概の大切さを頭では痛感しても、心で受け入れないという矛盾を最近感じるようです。

科学の発達により、また先人の努力の積み重ねにより、製品は高品質に、生活は向上し、未知の世界が解明されと日本の文化は絢爛豪華という修飾語がぴったりする世相になりました。正に繁栄を満喫できる時代です。

しかしそこに芥川龍之介ではありませんが「漠然とした不安を感じる」のを何かしら拭えないのも事実です。それは何でしょうか。勿論「漠然とした不安」ですから、明確には分かるはずもありませんが、何となく家で言うと基礎石、土台の部分にあるような気がします。潜在意識が教えてくれるような、本能的なもののような気がするのです。その思いは、私はブラジルから帰国以来途絶えずに持っていたのですが、それに答えを見つけたよう説を渡部昇一先生の著書に見出しました。

“羊に率いられた獅子の群れよりも、獅子に率いられた羊の群れの方が強い。”

これは渡部先生が紹介されている、ラテン語の諺です。そこで先生は先の大戦を引き合いに出されているのですが、チャーチル、ルーズベルト、ヒットラー、蒋介石と、なるほど綺羅星の如く個性強烈なリーダーがいました。日本だけが政治的軍事的に仰ぎ見るリーダーがいませんでした。世界の中でも群を抜くような頭脳明晰な秀才エリートは多く存在していたのですが。また、日本の下士官や兵の能力は獅子であり、アメリカ軍を驚嘆させたと言います。個々の人間の能力に於いては決して、外国人に引けを取らなかったにもかかわらず日本は負けたのです。羊に率いられた日本が、獅子に率いられた連合国に負けたのです。正に、ラテン語の諺通りを地で行きました。

そのラテン語の諺は、戦後の現代にも言えることではないでしょうか。でも、平和時ならば、私はそれがさほど杞憂すべき問題だとは思いません。日本人は「和」を尊ぶ農耕民族であり、その昔から「和」を生き方の基本原理としてきた社会で、リーダーが無能だと集団そのものが滅びる恐れのある騎馬民族とは思考様式も行動様式も違うのは当然で、その違い自体は優劣を論じるものではないのです。属する民族の社会の基本が違うのです。「理に掉させば角が立つ」のように、理屈は通っても全体としては「和」が崩れては住みにくいのが日本の社会でしたし、今もそうでしょう。

しかし、歴史の流れで「和」が崩れる時代が時々あり、特に時代が状況的に沸騰している、平時の方法では国が亡ぶという時には、過去の日本にもリーダーが出ています。それは、元寇の時の北条時宗であり、戦国時代の武将たちに見る事ができます。その歴史は、危機になれば自然とリーダーが出るといった他力本願、神仏へのおすがりといった信仰ではなく、日本人は平時と非常時ではリーダーの選び方を変えていたという事です。つまり、危機や危急存亡のときには平和の行動原理や農耕民族の「和」の気分でリーダーを選んではならないという事を、意識していなくても直感的に感覚として持っていたという事です、そしてそのリーダーに見る特徴は、「死に向う覚悟」を皆持っているという事です。そこから「生き残る筋」を求めている事です。

そうした時代を教えられると、漠然として不安に思うのが、現代の日本人は、昔の日本人には備わっていた感覚や、覚悟あるいは肚の座りといったものを喪失しているのではないかという事です。石原慎太郎さんが「平和の毒」と言われるのがこれなのかもしれません。或いは平和とはそういう様相を醸し出すものであって、それを喜ぶべきことが正しいのでしょうか。

平成27年11月11日
守山善継

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福岡県知事年頭挨拶


1月9日に福岡県知事に福岡県郷友連盟吉田会長他役員代表4名で年頭挨拶を行ってきました。

短時間でしたが吉田会長から郷友連盟の理念信条から最近の陸軍墓地慰霊祭など活動状況について説明し、特異事項として昨年9月、イスラエル国防視察団の成果並びに佐藤女性副部長が代表を務める昨年12月開催の「全日本きもの装いコンテスト」についてご報告いたしました。
また、現在の事務所が入っているビル(福岡県所有)の建て壊しに伴い、移転先を探していましたが、移転先(護国神社内施設)が決まり、3月末までには移転完了する予定を報告しました。
小川知事には郷友連盟の活動についてよくご理解頂き、引続き県としても支援するとの言辞を頂きました。写真は挨拶後の記念写真です。

福岡県郷友連盟事務局長 稲葉 敏
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福岡県郷友連盟の会員構成は、以前は旧軍人が主体でしたが、平成に入ってからは幅広く「志ある国民」に呼びかけ、郷友連盟の信条活動に賛同される方々と「誇りある日本の再生」を目標とした国民運動を共に展開する為、新規会員の勧誘を行っています。

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