11月28日は、晴天の中、貴連盟主催の航空自衛隊築城基地への研修へ参加させていただきました。大変に内容の濃い経験をさせていただきました。日常の生活では感じることのできない珍しくもあり、また勇壮な光景でした。
現場を見るということは、まさに「百聞一見にしかず」の諺通り、見る刺激を受け色々な疑問や感慨が浮かびました。
私が築城基地を訪ねたのは実に15年ぶりでした。子供たちが幼い頃、一度航空祭を見に来て以来でした。当時からF-15は第一線機として配備されていましたが、15年を経た今でも活躍しているのを見て、おそらく現在でも十分に通用する性能を有するのであろうと思い、アメリカの技術開発能力の高さと底力を改めて思い知らされました。
15年前には、まだ配備されていなかったF-2は日米共同開発によって生み出されたと聞いておりますが、F-15の無骨さに比べると、いかにも日本的な優美で繊細な感じのする戦闘機でした。エンジンから出る轟音もF-15に比べると非常に静かでしたがアメリカにはまだ追いつけない技術の差があるのだろうという印象を持ちました。
しかし、戦闘機を操縦するパイロットの腕前は素人の私が見ても、実に見事なものであり、旧軍帝国海軍のパイロットもかくのごときであったのだろうと思いを馳せました。その見事な飛行を見ながら、源田 実さんが「先の大戦末期には、アメリカの空襲に対して日本は第2波までには迎撃できたが、それ以降は無理であった。それが、国力の限界だった。」と述べられていることや、小沢治三郎中将が「航空機は質よりも量だね。」とその本質を看破されたというエピソードを思い出し、現代日本は、そうした先人が命がけで残された教訓を十分に生かした備えをしているのだろうか。正面装備、後方のロジステックス、情報のバランスはどうなのかと言うことも機会があれば知りたいものだと思いました。
そのF-15も既に20有余年が過ぎ、自衛隊が後継機にと望むF-22はアメリカが肯首しないと言う政治的状況を見ると、昭和40年代に松下幸之助さんが「国の存続にかかわるような戦闘機などは、自前の技術で製造しないといけませんね。」とある本に載せられていましたが、その見識と健全さと、大局観は正当なものだったなと言う思いを持ちました。今の企業経営者とは、その器が一味も二味も違っていたのでしょう。
私は、入隊経験も何も無い全くの素人ですが、歴史を辿るとき「軍事」というのは政治、経済と並んで国家、社会というものを構成する不可欠の要素であると確信していますが、日本独自の技術で国防にための装備が持てないとなると、昔の海軍が生み出したような独自の戦闘ドクトリンを生み出せないと言うことになるのでしょうか。もし、その通りなら、軍事的には日本は永久にアメリカの属国の地位にあり続けなくてはならないのではないでしょうか。そう考えると、敗戦というのは大きな出来事だったのだと改めて思い知らされます。
必ずしも十分に報われているとはいえないでしょうに、あの日、飛行を見せていただいたパイロットの若者たちは、まさに戦闘機乗りで生気であたりを払うような精悍さがありました。過酷な条件のもとで優れた技量を持つ彼らは、国の宝でしょう。そして、黙々と訓練を重ねているであろう彼らを見るとき、その彼らを生かすのは、政治の力であろうと思います。しかし、追い風を得て政権の座に着いた民主党のやることを見ると、まるで政治の素人集団という気がします。放映される予算の仕分け業務を見ていますと、まるでアメリカの高校あたりで政治の授業などでやる擬似討論と変わらないようにも思えます。あの仕分け作業などは、「いかに自民党と違うか」「いかに公約を守ろうとしているか」を国民に訴えるためのパフォーマンスでしょう。猿芝居です。
その仕分け人の方々の質問にみる視点、発言はどうも経済的視点しか持ち合わせていないように思われ、その視点しか分析ができないのではないかと疑われます。会社や企業の経営感覚で国家経営を考えているのではないかと思わされます。1960年代に登場した”マクナマラ理論”である「費用対効果比」をその道具として仕分け作業をされているようですが、果たして国防や国益と言った展望能力や想像力といった総合力を要求される分野にもそろばん勘定が通用するのでしょうか。もし、彼らがベトナム戦争を勉強していたならマクナマラの理論の限界をしっかり理解されているはずですが、どうもそうではなさそうです。「軍事にては、コスト過大の法則が働く」という高木惣吉少将の卓見を学んでもらいたいものです。仕分け人といわれる人々を見ていますと「戦後生まれはだめだな」と言っていた父の声が聞こえてくるようです。
また、彼らの思想の中には、「格差」というものに過敏に反応する心理や、自民党の政策の中にも正統性があり継続するものがあるといった冷静な判断があまり見られず、改善改革と言うより前任者否定と言った、まるで共産思想や中国の易姓革命と共通するような思想あるいは遺恨があるのではないかと、ついつい疑いたくなります。
道中、吉田理事長や間氏が連盟の趣旨や日本の現状そして自衛隊の防空体制などなかなか含蓄のある講話をされましたが、言われるように民主党の掲げる「政治は生活」は完全なポピュリズム(大衆迎合主義)でして、安全保障、国家感、国の誇りと言った外国の国々が政治の第一条件として持っている感覚が欠落しているのでしょう。逆に言えば、国民は皮膚感覚で身近なことしか理解できないといった国民蔑視、愚民意識があるのかもしれません。理事長ご指摘の通り安全保障への定見と素養のなさが民主党のアキレス腱です。党首で首班の鳩山由紀夫さんからして「自衛艦を友愛の船として派遣してもよい」などと発言したとも聞いていますが、ここに至っては夢見る乙女の精神構造ではないでしょうか。世界を見るに、リアリズムではなく、コンストラクティビズムやレベラリズムの混じったようなロマンティシズムで見るのは危険だろうと思います。こんな党首をいただく政権の下で安全保障の第一線で苦労している自衛官の人たちには本当に報われ、誇りが持てるのでしょうか。
イスラエルのモサドの高官が「政治家の人格的欠陥により、しばし歴史はその犠牲になる。」と言っていますが、それは現在の日本のことのような気がします。
周りを見渡しても、エゴイズム、全てを経済的価値で考えようとする拝金思想がはびこり、反面、礼節や人情味がすっかり失せてしまいました。明らかに戦後教育がボディブローのように効いてきた証拠でしょう。私は卒業したブラジルの高校では、「人間として立派であれ。ブラジル人として立派であれ。」ということをキリスト教精神と愛国心を涵養することによって教育していました。そうした素養が培われて初めてしっかりした人格ができるのだと思います。しかし日本では、自らの歴史を否定し、母国を否定し貶める教育がなされているのですから、それを異端と言わずしてなんというのでしょうか。このような歪んだ現代の日本をみるにつけ、国の正統性、揺るがぬ知性、強靭な理性というのは自衛隊にしか残っていないのではないかと思います。
私は国民の一人として自衛隊の活動を支援し、また期待もしたいものだという感慨を覚えた研修でございました。これからの、貴連盟のご活躍をお祈りいたします。
守山 善継